2024年11月4日のワタクシゴト:仕事辞めました&アトランタへ一人旅してきました

♦ワタクシゴト

実は9月の末に、辞表を提出しまして、10月下旬に仕事を辞めました。

理由があるから辞めるわけですが、自分でも理由がはっきりと説明できず、
たぶん、父が亡くなったことが一番大きな理由になるかなと思いました。

私の父は非常に厳しくて、そんな父から守ってくれていた母もけっこう厳しくて、私は周りから見ると自由奔放に見えるかもしれませんが、これでも、親に心配かけないように、離れていても親の作る枠の中から心理的に出られず、絶えず重責を感じている状態だったのですが、

両親が亡くなり、私はもう心配かける人がいない(息子が「俺が親みたいや、心配や」と言うようになりましたけど)ので、今私は、自由なんだ、自分の意志で生きられるんだ、なんてこの年にして思ったわけですよ。

5歳のころから一人で育てた息子ももう30歳目前となりましたし、自分が何か自由でクレイジーなことをするなら、年齢的にも今が最後のチャンスの気がしました。

仕事はマルチタスクで忙しく、日々覚えることがあり、会議は録音したものを業務時間外で聞かないと追いつかないし、メールの数は毎日何百件を超えているし、残業は会社の無駄な出費を抑えるために禁止されてはいるけれど、しないと終わらない日々。ランチ休憩も取れない。時間に追われるタスクでストレスが常にある。家と会社の往復で、そばに海も山も買い物を楽しめる街もあるのに、心がくたびれて、楽しみたい気持ちがわいてこない。人付き合いさえおざなりになってきてしまって、休日はこもる、軽い鬱だなと自分で感じながらの毎日でした。

それは私だけではなく、同じ業務に携わっている同僚全員にいえるので、辞めて皆に迷惑をかける心苦しさもありまして、
そういうわけで、辞表を出すときには泣いてしまいました。

その時はどこに引っ越すかも決めていず、先が全然決まっていない状態でした。

そうして徐々に目的地をしぼっていって、アトランタに決めたのですよ。

移住先は絞ったものの、忙しい毎日を送っていたので、自分が辞める実感がわかず。
送別会も、皆が多忙なのだから気持ちがうれしいですけど、皆の心の負担になるのでお断りさせていただきました。

そうしたら、最終日に、皆さんが綺麗な花のレイをたくさん首にかけてくださって、ケーキやピザや、お休みの方が私の好きなウベ(紫芋)のバター餅を作ってきてくれたり、離島のマウイ島からオンラインで電話をくれたり、皆によくしていただいて、
初めて「そうだ、私は今日が最後で辞めるんだ」と最終日にようやく辞めるのだと実感した次第です。

皆に迷惑をかける私にこんなに良くしてくれる同僚の皆さんのやさしさが、ありがたくて、うれしくて、そして、
「こんな良い職場を辞めるのはバカじゃないか」と考え始めました。急に落ち込み始めました。

さて、その数日後、アトランタへ下見に行ったのですよ。ジョージア州へ行くのは生まれて初めてで、知り合いもいません。

まったくもって、クレイジーなプランです。

ハワイからアトランタまでは、シアトルで乗り換えて、13時間ほどでした。

空港から街までの電車の切符を自販機で買うのに、クレジットカードでうまく支払えず、四苦八苦。あきらめてキャッシュで払いました。事前に買い方を調べておけばよかったです。

そこから電車MARTAでダウンタウンへ向かい、ケータイのGPS機能を頼りにホテルへ。

たいていタイムシェアはどこでも郊外にあるのですけど、たまたま持っているタイムシェアがアトランタのダウンタウンにあり、空いていたので、ポイントで泊まれました。

今年はそれまでまだ使っておらず、もう10月末だし、ポイントは12月末に消滅するので、「今年は管理費を払っただけで、使えなかったな」とあきらめていたので、利用できて渡りに船、余計な出費をせずにすみました。

ハワイでは日本人や日系人、ハワイアン、フィリピーノなどなどアイランダーの方たちと仕事してきたので、アトランタではまるで人種が違うので、私にとっては外国へ来たような気持ちになり、しかも大都会。ディープなサウスと言われている場所です。

改めて自分は田舎者だと気づきましてね、緊張感で滞在中は体がカチカチに固まって頭痛で薬も効かないありさまでした。

滞在中、毎日通過していた場所付近で、銃事件もあったらしく、まあ、銃の事件はハワイでもたまにありますけど、やはり都会だなとビビりますよ。グーグルマップが案内してくれる道が、裏道のあきらかに危険そうな場所だったこともあり、路上生活者から話しかけられることたびたび。体がこわばりました。怖くてつい返事をしてしまっていたら、丁寧な人たちでしたが。

さて、到着した翌日と翌々日、事前にオンラインで見ていた住宅を見に行ってきました。

いろいろ資料をそろえてもっていったのですけど、今や申し込みは対面でではなく、すべてオンラインで済ませるのですね。

いろいろ審査が厳しくて、あらゆる資料を手元のケータイに   保存して、またそれからpdfで申請先のサイトへアップロードしなければならず、苦労しました。

世の中にはもっと簡単に引っ越してお部屋を借りている人たちもいると思うのですよ。そういうのはこういう管理会社のついているところではなくて、個人で貸しているところとかで申し込むんでしょうか。人の紹介とかでしょうか。

知らない土地で、慣れない電車とバスに乗り、知らないところへ部屋を見せてもらいに行って、申請に四苦八苦して、ストレスで疲れてきちゃったものだから、

「自分はなんて馬鹿なことをしているんだろう。
仕事を辞めたら、お給料も、ベネフィットも、保険も無くなって、これから老後に向かって、貯めていかなけれならないというのに、貯金を使って引っ越そうなんて、クレイジーすぎる。
他州へ引っ越したら、苦労して取ったハワイ州の公証の資格も、不動産の資格も、ハワイ州外では使えない。
空だってこんなに都会の色で、ハワイのような青空じゃない。山も海も近くにない。」

と、一気にホームシックモードになりまして、「もう絶対一生ハワイにいよう。物価が高くても、仕事と家の往復の人生でもいい。そこで自分の楽しみや生きがいを見つけようとしなかった自分が悪い。こんなんじゃどこにいっても同じだもの。」という後悔モードに突入しましたよ。

しかしですね、4日もたってくると、少し慣れてきました。
おいしかったので、毎日通ったケイジャン料理のお店の方たちがアットホームで優しかったことや、

帰りの飛行機の中で、アトランタからハワイまで、乗り継いでも隣だった3世代家族が、同じようにアットホームで優しかったことで、南部の人の温かさっていいなーと思い始めました。

ハワイへ帰ってきてから、パソコンが壊れたのも、「引っ越そう」という思いにつながりました。

ノートパソコンに、必要経費の情報や、ハワイに滞在し続けた場合、アトランタへ引っ越した場合、の利点の比較を表にしていたんですけど、それが消えてしまいました。ハードディスクがいきなり壊れたなんて、人生で初めてです。もう、見ながら、どうしようと悩むものがなくなっちゃったので、もんもんと考えるのをやめました。

息子が、英語版の「アルケミスト」を旅の前にプレゼントしてくれたんですけど、(昔、息子に日本語訳のものをあげたことがありました。その時は親子ともども、ふーんって感じだったんですけど、大人になり紆余曲折を生きてくると、この本の良さがわかるようになってきて(私も今更)、旅の間、読んでいたこの本からも「直感を信じること」というメッセージをもらい、

そうだ、思い悩んでもしかたない。クレイジーなことを今しなかったら、私はきっと、死ぬときに、「一度は本土で暮らしてみたかった、チャレンジしてみたかった」と後悔するかもしれない。

一生そこにとどまると思わずに、一度引っ越して暮らしてみて、そこで改めてハワイへ帰りたくなったら、また戻ってくればいいんだ、とやっと納得してきた感じです。

簡単に物事を決められればいいんですけど、何か決断するときはものすごく悩みますね。

「子供のために」というような、誰か自分の大切な人のためにプラスになることなら、迷わないですむけれど、自分のために、となると、迷い迷って、答えが出ないです。

今も、決断したものの、もんもんとしています。

来月のブログで「やっぱりやめました」と書いているかもしれませんが(笑

まだまだ気持ちに波があります。

おつきあいいただいてありがとうございます。

2つのブログランキングに参加しています。ぽちっと応援をお願いします!
にほんブログ村 海外生活ブログへ     

タイトルとURLをコピーしました